茜さん
さん
飛鳥さん、ありがとうございます。

秦河勝は飛鳥時代(6世紀末-7世紀中ころ)に聖徳太子に仕え、泥沼であった京都の西側、今の右京区当たりの開発を提案して受け入れてもらいました。

秦氏は土木技術者を多く抱えており、奈良県の生駒山付近から移動しています。このとき居宅が現在の広隆寺付近にあったようです。
聖徳太子から賜った仏像を安置するために広隆寺を建てたようです。

泥沼の辺りを整備すると共に保津川の嵐山に堤を作り、河川流の安定を図りました。これが今の嵐山にある渡月橋の場所です。写真1

太秦(うずまさ)の地名は、「朝廷に納める絹織物がうず高く積み上げるほどであったから」に由来するともいわれます。日本の絹織物はこの辺りから始まったようです。

今この太秦は「東映太秦映画村」、京都の観光名所になっています。写真2
時代劇の撮影が少なくなって、困った東映が起死回生の施設が生まれました。

銭形平次、必殺シリーズなど、多くの時代劇はここで撮影されました。
今も、時代劇の撮影に使っています。写真3,4