茜さん
さん
清水寺の境内に阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の顕彰碑があることに今回初めて知りました。

奈良時代から平安初期にかけて東北地方は朝廷の支配の及ばない地であり、住民を蝦夷(えみし)と呼ばれていました。それなりの交流があったようです。

奈良時代の聖武天皇のころ疫病が蔓延して、東大寺の大仏を造り、国家財政が傾くときがありました。
これを機に朝廷は東北地方の金山に目をつけ、支配下に置こうとしますが抵抗にあい支配できませんでした。

桓武天皇の時代に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は数万の兵を率いて勝利し、東北地方の連合軍の指導者アテルイ、モレを連れて平城京に凱旋しました。
坂上田村麻呂は両者に東北地方の管理を委ねる様に提案しましたが、公卿の反対されて、両者は処刑されました。

この後失意の坂上田村麻呂は今の清水寺を建立したようです。

時代は変わり、10年ほど前に東北地方の有志が集まり、アテルイとモレの顕彰碑の建立を清水寺に願い出たところ、快諾されたとのことです。
坂上田村麻呂も喜んでいるでしょう。