茜さん
さん
幸子さん、ありがとうございます。

武田勝頼が天目山の露として消えた後、信長は家康をねぎらうためと称して、堺観光に招待します。
堺観光から本能寺へ帰ったところを、明智光秀が打ち取る手はずでした。
これは信長が光秀に命じた策謀です。
しかし、光秀はこれを家康に伝えます。
この時、家康が三河に帰って戦支度をして、ともに秀吉と戦うことを約束します。

戻るまでに1カ月と想定します。しかし秀吉は岡山からわずか一週間でやって来ましたので、天王山の決戦には間に合いませんでした。これが真実です。

細川忠興は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)と1578年に勝竜寺城で挙式しています。
天王山の戦いには光秀の誘いを嫌って城を出ています。
天王山の戦いに敗れた光秀はこの城に避難して、そして琵琶湖坂本城で家康の到着を待って再起しようとしますが、途中で落ち武者狩りに合います。

写真1・真夏の強い光で色合いが強くなる百日紅です。
写真2・勝竜寺城址は記念館になっています。細川ガラシャの資料館です。
写真3・細川忠興、ガラシャの像

それにしても細川忠興の直系の子孫が元首相細川護熙(熊本は18代当主)とは驚きです。